安倍元首相暗殺と参院選

2022年7月8日安倍元首相が参議院選挙の応援演説中に銃撃されて亡くなった。

投票日7月10日の2日前のことだった。

まずは、安倍元首相のご冥福を心よりお祈りします。

犯人は世界平和統一家庭連合(旧統一協会)を恨んでおり、安倍氏がそれに関わっていると

思っていたため、恨みに思い、殺そうと思い立ったとの事だった。

統一教会のせいで母親が全財産をつぎ込んでしまい、犯人の家庭がめちゃくちゃにされてしまった事は非常に気の毒に思う。

特に今回のケースの場合、安倍元首相が狙われたのは、統一教会と関係があったという勘違いによるものだったとされているが、仮に統一教会に本当に深く関わっていた人物、特に教祖のような人物を殺害していたとしたら、ここまで大きなニュースになっただろうか?

あるいは、安倍元首相が本当に当宗教団体と深く関わっていたとしたら、世論はどうだったのだろうか?

嫌なことをされたとか、なんらかの被害を受けたという理由で、誰かを殺したい程憎む、という事は誰しもにあり得る感情だと思う。

しかし、多くの人は実際には計画しない。

仮に本当に計画をするのであれば、殺したい相手が本当に憎むべき人間かどうか、よく調べてから殺すべきだったと思う。

実際に安倍元首相の心情や政策をよく理解した上で、憎んでいた人は、この世の中に数多くいたと思う。権力を持った人間には当然恨みを持つ人間も出てくるのだから当然だろう。しかし、そういう「ちゃんとした」犯人では無く、こんな頓珍漢な動機で殺されてしまった安倍氏は非常に気の毒だと思う。(勿論、そういう「ちゃんとした」犯人に殺されればよかった、という意味では無い)

犯人にとってみれば、自分の人生をめちゃくちゃにされて生きる希望も失ったから、誰でも良いから殺したかった、といった、ある種の拡大自殺と同じ心理状態の元犯行に及んでいたのかもしれない。

その上で、この事件の最大のポイントは政治家、ひいては元首相、という存在が選ばれ、またその目的が達成されてしまった、という事だろう。

個人的な恨みは、ある1つの宗教団体に向いているのに、そこでは無く、一人の権力者、元首相を殺そうと思い立った、という事は非常に興味深い。

そこには、首相=権力→国、社会を動かせる。という記号化があるのでは無いかと思う。当然、国のトップであるのだから権力があり、社会を動かせるというのは当然であるが、そこには特に日本社会が抱える問題点があるのでは無いかと思う。

特に、安倍元首相といえば、長期に渡って追求されていた「森友」「加計」問題といった、権力を振りかざして、ほしいままにしたという、権力の権化の様な印象があった。

日本は、古来から、トップダウン式に政治的決定が行われて来た。お上が決めた事に従うというのが一般的であり、そのような考え方が現代の日本人にも根付いているように思う。

西洋社会では、古来から、施政者に対してでもざっくばらんに意見をいう事が出来、それを聞くことができる施政者こそ優れた人物だとされたそうであるが、そもそも近代期に西洋的な民主主義が国民からのボトムアップ的に発生したのに対し、日本の民主主義が明治期の西洋化に祭してトップダウン的に与えられた事でもその違いは明らかであろう。

この狙撃事件に対して、「民主主義の敗北」と7月18日の朝日新聞で宇野重規氏が書いていたが、権力のトップを殺せば何かが変わるかもしれない。という発想そのものが

、そもそも、民主主義的では無く、それが悲劇的な事に、この犯人に特異な事では無く、日本人の意識の中に脈々と受け継がれている思考なのでは無いかと考えると、結局日本人には民主主義という思想が本質的には根付いていないまま、見せかけの民主主義の皮だけを被っているのでは無いかという疑念すら出てくる。

さらに失望したのは、「同情票」というものによって、自民党が大勝したという事実である。

僕は、アンチ自民党という訳でも無い。ただ、政治思想に関係無く、元首相が斃れたという事件を受けて、

「頑張っている」から応援しよう、といった、日本人的な思考は非常によく分かるし、だからこそ30年もの間成長も出来ないのだろうとも

思うが、それが、この投票結果に集約されているのだろう。

救いなのは、自民党の比例票が30歳未満は4割を切るという7月17日の日経新聞の記事である。

若者は冷静に政局を見つめ、「同情」によらず投票を行ったという傍証になり得るだろう。

また、これは余談であるが、この事件の事を多くのニュースでは狙撃事件であると言っているが、

どうして「暗殺」という言葉を使わないのかが不思議であった。